吉村先生、この度は「上原敬二賞」受賞おめでとうございます。上原先生という方は、技能者としても、技能の世界を非常に細かく収集をされ、それを記録されてきた方でもあり、誠に時宜も得ているし、ふさわしいと思います。
吉村:その様なお言葉を頂いて本当に恐縮です。そもそも、私が卒業した造園学校の初代の校長はご存知の通り、上原先生です。我々も在学中、特定のカリキュラムではなかったけれども、年に何回か上原先生の特別講義で造園に関する多くのものを勉強しました。その後も上原先生のいろんな行事があるたびに私も参加して聞いていたし、また上原先生の書いた本を読むと、何か現代本と違った、明治時代の気骨がよく現れているような気がしてなりません。
そのような事を思っているときに、このような話があって本当に私としては身に余る光栄で、こんなに嬉しいことはございません。大恩師から「お前、良くやったな」と浄土の中から声が聞こえて来るような気がするんです。そういう意味でも,造園界も何か足りないものがある、私も率直に言わせてもらうと、本当に足りないものだらけの様な気がしないでもない。
私みたいな一介の職人上がりの者が、そんなことを言っては大変失礼なのかもしれないけれど、作業技術者が造園の基礎を学んでいない、要するに三角形になぞらえてみると、正三角形を逆さまにした頭でっかちの形で、結局下の方が何も出来ていないという様な感じがしてなりません。
このような事からして、私もあちらの研修、講座、こちらの実技研修と引っぱり出されてやっていますが、先ず第1番に私は造園の基本と、物件りの心得を皆さんにとことん話をする事から始まり本題に入ります。
そういう意味からも今回のこの賞を頂いた、という事は本当に感無量でこれからも、もっともっと若い人達に、伝統技法ばかりでなく、これからの造園あるいは造園産業はどうあるべきかと言う事を、少し生意気なようですが、教えていかなければならないと思っています。
最初に、吉村さんは樹木に対しで憎らしくなるくらいの扱い方をされる、それが吉村さんのすごさだと思いますが、木に向かい合う気持ちとか、姿勢の話を伺いたいと思います。
吉村:最近、私は樹木に関する生き物を扱うときの心得として、こんなことを何処の研修に行っても喋るんです。剪定作業の5訓と言うものを自分なりに作って、これに従って喋るんです。
1番目の、己の五体(頭、首、胸、手、足)を考察してその目的を知る。これは親父から常に言われて、なるほどと思っているのは、剪定をするときに己の5体を考えろということです。5体と言うのは頭、首、胸、手、足、これを良く考えてその目的を達しろと言うことです。頭は頭の目的があるんだと。手には手の、足には足の目的があるんだと。樹木で言えば,この樹木は目隠しなんだからそのように剪定しろ、その目的を知れと言うことです。
2番目は、切傷治癒の促進は工具の整備にあり、我が身を孤って樹の痛さを知る。相手が生き物なんだから良く道具を整備して、切除した場合に、1日も早くその切傷を治してあげられるようにする。我が身を抑って人の痛さを知る、木の痛さを知るようにと言っています。そのためには、常に道具を整備しろと言うことです。
3番目に、樹と語らい乍らその心を知る。剪定の心得と言うのは、すべからく樹木と語らい乍らその樹木の心を知れ、ということです。それは親父にとことん言われています。何も寒い日、木に登っていって「寒いね」と大きな声でいうのではなく、「寒いな、これから暖かくしてやるよ」とか、「下方の枝は寒いたろ」とか、「下方の枝を可愛がるには、上の方の枝を少し取らなければならないんだよ」とか、そういう事を語らいながら枝を落とせと言う訳ですね。
4番目は、基本に従ってそのルールを知る。基本に従ってそのルールを知れ、とも言われました。ですから、剪定には剪定のルールがあるだろう、それに従って物事を処理しないと、とんでもない剪定になってしまうぞと言うことです。
5番目が、修行を積んで交るマナーを知る。色々な修行を積んで、人と交わるマナーを知れということです。樹木に限らず石にしても垣根にしても、作るときに自分で分からなかったら人に聞く、その人に聞くにもマナーが必要だよ、だから自分が偉らぶってはいけないんだと。分からなかったら、聞くは一時の恥だと、良く私は言われていました。更に「切るも剪定、切らぬも剪定」だと。この5つを私は「剪定の5訓」として、会社の若い者や技術技能研修生たちに話しています。
話を変えて、吉村さんは昭和18年に東京高等造園学校を卒業されたのですが、その頃は戦時中の大変な時代だったと思いますが、
吉村:その頃、得意先に行った親父が「お宅の息子さんは学校に行っているそうだけど、どこの学校?」と聞かれ「造園学校です」と言うと、「造園学校で今何やっているの?何をする学校?」と聞かれたといいます。
その頃は航空科とか機械科、電気科とか造船科などが花形で、造園科なんて言うと探さなければないような学校だった。ところがその当時、防空造園と言う言葉があったので、それを楯に、防空造園とか工場緑化とかを学んでいますと言うことでどうやら造園を理解して貰っていた時代だったですね。だから本当に肩身の狭い思いで学校に行ってました。
その時教えていらした上原先牛の思い出、吉村さんにとっての上原先生と言うのはどういう方ですか。
吉村:特別講義で、雑学じゃないけど、色々な話をしてくれる。それから校長さん(龍居松之助)は日本庭園史、西洋庭園史は針谷さん、植物学は大木先生、平山先生は石だとか垣根だとかで平山流のすごい教え方でした。また、角田先生と言う女の先生がいて、製図をとことん仕込まれたし、そういう先生達には、造園というものはこういう戦時体制下ではパッとはしないけど、いっか平和な時期が来れば必ず花が咲くぞ、と言う気概があったと思うんです。
吉村さんも、歯を食いしはってでも、この学校に行き続けて卒業しようと思われた訳ですよね。
吉村:今、歯を食いしばって、と言われたけど、私は14,5才の時に、親父が1人で得意先に植える樹木をリヤカーに積んで、ある坂道を上がる時に、1人では上がらないので親父から「小遣いやるから押してくれ」と言われ、押したことがあります。その時に親父の背中を見ながら、一生懸命汗水流して坂道を上がって、親父に「一服やろうや」と言われた時に、「ああ、俺は親父の跡を継ごう」と言う気持ちになった。この時に大袈裟かも知れないけれど、俺は親父の跡を継がなきゃダメだ、親父の跡を継ぐんだ、と決意したんです。
だから,造園学校に行かせて貰って、とにかく親父より一歩でも二歩でも先の人間になろうと言う気迫はありましたね。得意先のご主人からは、造園学校って何だとか、戦時体制にそんな学校行っていて良いのか、とか言われたこともあります。だけど、いつかはいつかはと言う気持ちがありました。戦争はどうなるか分からないけど、いつかは造園というものが必要になる、我々は緑がなければ生きてられないんだと言う気持ちがありました。
ですから、上原先生達が熱を込めて話す内容を一生懸命に聞いたし、平山さんに怒られ怒られ、今で言う積算をいろいろ勉強しました。平山流の積算と言うのは、例えば四ツ目垣の場合に、1寸5分の釘が百匁で何本あるか、四ツ目が四胴縁で送り1間だから、釘が8本要る、百匁で何本だから、8本だと幾らになるか、そこまで計算しろと言う。椋欄縄を2本取りで四ツ目縛りを結束して何センチの縄が要るのか、と言うんですね。そこまで計算しないとダメだと言われるんです。これが見積もりの基本だと怒られましたね。何でこんなものが解らないんだ、もっともっと勉強しなさいと言われ、私も歯を食いしばってやっていましたね。
その頃東京高等造園学校には何人位おられましたか?
吉村:何人もいなかったと思います。私達が17期で一番最後ですよね。途中で兵隊に行った者もいる、卒業式の時には何人もいなかった。せいぜい、10人位であったと思います。
そういう状況の中で卒業はしたけれども、市内ではだんだん焦土になっていく、それでも造園屋をやってました?
吉村:やっぱり、幾ら私が親父の跡を継ぐんだといっても、所詮戦争に勝たなければしょうがないですよね。ですから、私は予科練へ志願しました。あとで「志願するバカもいる」と聞かされるけれど、その時は大袈裟な事をいうと「日本は勝たなければならないんだ、我々が礎になって勝たなければいけないんだ」と思い込んで、造園のことなど一時は放り出しました。親父はやってましたけれどね。
でも、その当時の親父の仕事は、ほとんど帝都造園組合の作業で、焼け跡の整理だとか高射砲陣地の設営とか軍の仕事で、個人的な仕事はなかったと思います。そして、戦後は暫くの間、焼け跡の整地その他の作業。このような時を過ぎて、やがて進駐軍が駐留する。そして今まで海外で活躍した日本人が帰ってくる、そうすると即座に住宅難です。住宅が足りなくなるから、山野を開拓してどんどん緑を潰してしまう。
このようなことで日本中の国士がだんだん開発によって緑が少なくなっていってしまう。この事態を重視して国が緑を保全するようになった、これがやがて造園界が発展していく土台となったのではないでしょうか。
進駐軍と共にやってきた欧米風の造園を見たときは、どう思われましたか
吉村:私は戦後の昭和22年頃、平山先生の紹介で、東京造園土木という目黒にあった造園会社に、工事の設計図と積算を担当する社員として入社しました。その頃米軍の工事で横浜の根岸キャンプに造園工事があって、約1ヶ月半位東横線で通いましたが、今の反町から横浜の間は、見渡す限り何もない焼跡で、港がずっと見渡せる場所でした。そこに米軍が陸揚げしたジープ、トラック等の車両が何千あるいは何万台かものすごく整然と並んでいる、これを見て私は驚いた。こんな物量のある国とドンパチやって勝てる訳がないと。(笑い)それが第一印象、すごいなと。
それから東京の三宅坂にカマボコ兵舎が出来ました。たいして樹木は植えないけれど、オール芝生で、洋風庭園というのはこれだなと。造園学校で戸野先生が西洋庭園についていろいろ話してくれたんだけれど、その1つの延長がカマボコ兵舎にある訳で、これがやはり洋風庭園の絞られた姿だなと思った訳です。
建物にしても軍用だから、ものすごく合理的で、それに即応した庭と言うと芝生内に園路があって合理的に作られ,洋風庭園と言うのはこうなんだなと言う印象を持ちました。それから米軍の将校クラブで、今の神田如水会館へお茶庭を造りに行ったことがあるんです。これは、親父とか日造連の初代組合長をされた長崎さん達のグループで行きました。蹲踞を据え、飛び石を打ち、灯篭を建て、植栽等を行なって仕上げました。その後数ヶ月か経って、維持工事のため掃除に行った時に、灯篭が真っ赤なペンキで塗っであって…。(笑い)「日本庭園は分かってないな」と思いました。そういう思い出があります。
以上、極端な思い出を3つ挙げろと言えば、只今申し上げた反町から横浜港まで並んでいる車の凄さ、それからカマボコ兵舎の合理性、それと如水会館の茶庭の真っ赤に塗られた織部灯篭です。
今の造園界全体についてですが、今、マニュアルを作りましょうという動きが一つあります。マニュアル化についてどうに感じられますか。
吉村:樹木の剪定に例えていえば、私は一言でいうと、基本に尽きると思います。結局生き物を扱うには、基本的に何をすればよいかと言うことが先ず浮かんできます。生き物を十二分に生かすには何をしたらいいか、ということです。何をしたらその生き物が完全にその目的を達するか、というような事を先ず考える、これが基本だと思うんで、それに従えば、剪定の技術というものはいろいろあっても、そういうテクニックを使う前に、先ず基本を生かさなければなりません。
そういう技術、テクニックではない考え方が大事であるし、今はガーデニングブームで若い人達が自分の発想通りのものを作っていますが、確かに、若い人達の作っているものは新鮮で、唸っちゃいます。これからそういうものが増える方だと思いますが、しかしここで考えを新たにしなくてはならない事は、連綿と続いてきた日本の庭園の文化を我々の代でなくしてしまうのは誠に残心に耐えない事であり、且つ我々の責任だ、何としてでも伝えていかなければならないと思っています。
私の覚えた造園の領域というのは、どちらかというと華々しい草花園芸を主体とした庭園の世界ではなくて、渋さとか、さりげない日本庭園の文化を、若い人達に受け継いでいく事です。花で飾ったものは、若い人達にはとてもかなわないと思っています。
マニュアルを使う前に、マニュアルを使うための基本、理念を分かった人が育たないという現状をどう思われますか。
吉村:三角形を表現すると逆三角形になって、要するに頭でっかちになってしまっていると感じています。芸を知らなくて理倫ばかりを知っている。ですからその理論に従ってこれを作って見ろ、と言うと出来ない。何かそれが一番不足しているような気がします。
先ず芸と言うか技能の土台を広げていく事で、我々の技術、技能だって三角形になぞらえると、まだまだ頂点には決して到達してないんだから、今の若い人達も頂点を目指していくと言う気持が必要で、そのためには底辺をなるべく広げて、大きい三角形の頂点を目指さないとダメですね。
マニュアルがあれば何でも出来る、と言うのは勘違いですよね。
吉村:例えば、造園にしても大工にしても、皆、後継者に悩んでいるけれど、後継者を引っ張り込むには、そういった一つのマニュアルには書けない諺を何となく暗示させる、例えば「色気を残す」「対象物の心を知れ」「遊びごころ」などという文句はなかなかマニュアルには書けない一つの芸術語だと思うのですが、芸術というものは、そういうところに芽生えてくると思う。
剪定の講習で、切るも剪定、切らぬも剪定だよと言う。切った後のゴッゴッした感じをカバーする不要枝とか、半年間枯れ枝を残すと言うのも、一つの剪定技巧だと思っています。
石組みだって遊び心がなければとてもじゃないけど組めない。垣根だって全部同じような間取りでは面白味がないから、思い切って間を崩すとか。その辺の工夫があれば面白いんですよ。このような技法に興味を引くような事をマニュアルに書いても良いと私は思うんです。
職人さんが勉強しようとか出会い帳場で恥を掻かないようにしようという感覚を持っていたのは、どのくらいの時代まででしょうか?
吉村:今の若い子でもいます。私はいつも言ってるんだけど、造園の職業訓練校は座学ばかりでなく、やはり職業訓練校なんだから、理屈ばかりではダメなんだと。四ツ目垣の一つも縛れなければ訓練校の値打ちがない。ですから出来るだけ実技をするようにしています。こういう作業中は、仕事に食いっいてくる若い人がいます。これは頼もしいと思います。
また,役所の職員さんにも作業に食いついて来る人はいます。そういう人っていうのは、私は尊い存在だと思います。というのは、毎年浜離宮で雪吊りの講習を行なっています。ある年、是非参加したいと3人か4人がやって来ました。その講習会が済んでその年の内に、彼等は自分達で雪吊りを作った、と言って写真を送ってきたんです。その気持ちが、私は本当に嬉しかった。講習会をやって、10日も経たない内に彼等自身で作った。こういう人達が役所の中にもいる、うちの職人の中にもいます。また、日造協の各社の若い人達の中にも、あっと思う程、こいつはやれるなと思う人もいるから、諦めてはダメです。
ところで、ここは造園学会ですが、学会というものにどんな感じを持っておられますか。
吉村:造園学会というのは、学会雑誌で見る如く、多くの会員の方々の研究論文の発表が多く難しい論説が多い。私は根っからの職人で論説には弱い。だからちょっと分からないね。しかし、学会雑誌がなきゃ困るけど。(笑い)
実技の世界と学問の世界とがだんだん離れてしまったという感じがありますが、
吉村:確かにそうですね。そこで私の大恩人である上原先生の賞を頂いだということは、私個人も嬉しいし、現場で汗水たらしてスコップや鋏、心棒を振り回している親方連中も嬉しいことであると思います。毎年じゃなくて良いですから、まだまだ自分でスコップ等を振り回している現場の指導者達が大勢居ると思うので、その方達にもこのような機会を与えてほしいと思います。
今,マニュアルがあったりして、作る人の顔が見えなくなっています。顔を見せなきゃ元気がでない。自分のスタイルを一生懸命に工夫した人に、その工夫に対して評価することが大切なのではないでしょうか。
吉村:時代の波と言うか、世相ですね。要するに今の人達は全部ではないけれど、造園だけで面白くなければ、何か他のものに資本を投じ手を出す。そういうシステムになりがちです。
でも,面白くてやったというものが造園に見えないからじゃないですか。
吉村:そういう事はあると思う。その点では、造園はこういうものだということを、学会あたりで旗を振るか、あるいは造園業界などで大いに喚起してやるべきだと思う。今の造園の職業に励んでいる若者は理論ばかりで実技が不足している。「よ一し、俺は吉村塾を作るんだ」って思っています。好きな奴は来いよ、やる気のない奴はついてこなくても良い、例え2人でも3人でもいいから、来年は塾を作る事を目指しています。私も、なんとかして若い人達をリードしていかないと、本当に日本の庭園文化は我々の時代でなくなってしまうんではないだろうか、という危倶がありますから…。
しかし、どうして評価がうまくいかないのでしょうか。評価する側に問題があるのでしょうか。
吉村:今の施主、つまりダンナと、昔のダンナとは全然違うということです。昔のダンナというのは、自己の資本で諸工事を依頼されるから、いくら仕事を丁寧にやっても文句は言わない。逆に雑にやると怒られる、その辺の違いですね。
それと、たとえば維持管理で剪定の工事が出だとすると、誰が見てもこれはぎりぎり一杯の予算だなと言うところを、腕のある人だったら、よし、ここは一番俺が引き受けてやるという意地がある。今の人は予算がこれじゃ出来ないな、と諦めちゃう。だけど腕があれば、剪定をするにしても、普通の人が1日かかるところだったら半日で仕上げてしまうとか、しかも仕上げが椅麗だとか、そういうことを我々は考えてしまう。
今の普通の人達は予算がこれでは、と言う風に考えちゃうけど、我々は予算がないならないで、やっちゃおうと考えます。作業方方法も切り詰め剪定なんかではとても引き合わない、枝抜き剪定や切り返し剪定などをミックスして仕上げをパラッとさせちゃう、そして「如何ですか」とやると、それなりに出来ちゃう。それもやっぱり技術の内ですね。
何が良くて何が良くないかと言う評価が、技能や技術を将来に継承していく事を考えていく上で非常に大事なことだと思うのですが、
吉村:やはり、如何に評価をしてあげて、その人達が満足する方向へと目を向けて貰うかいう事だと思います。向きかけている人達が全くいないと言うことではない、と言うのは事実です。
そういう人達を何か上手くリードしていきたい。そこで、一役買って石の据え方を教えるとか、垣根の縛り方を教えるとか言う事なら私も大いに協力できます。
造園なんて評価の科学的な体系なんかできる訳ないじゃないかと思われますか,それとも出来そうだと思われますか。
吉村:いや、出来そうですね。完全に出来ますよ。出来なかったら大変だ。
今の間口が広くて厚みのない造園界を見て、どう思われますか。
吉村:まあ、難しい問題ですね。どう思うと言われてこうです、とはなかなか断言出来ないけど、ともかく我々の目の黒い内に何か1つの目標を立てて、「あの時こんな会話をして良かったな」と言う結果を生むように頑張りたいと思っています。「頑張る」その一語に尽きます。
具体的には、今日いろいろ話した現実の問題を少しでも解決していけばいいと思う。とにかく若い人達のやる気がないのではないのだから、私は彼らを信じ安心しています。それから、造園屋あるいは植木屋さんで、「あの人商売やめた」と言う話は、今まで聞いたかも知れないけれど、造園業そのものがなくなったと云う事は全くないし聞かない。
人間というのは緑がないと生きて行けないんです。
今、植木屋と言う言葉が出ましたが、庭師と言う言葉、それから造園屋と言う三つの言葉にどんなことを感じますか。
吉村:私も昔は植木屋とよばれ、それから戦後は造園屋に変わった。しかし、昔も今も庭師と云う言葉は変わらない。私はどっちかというと、庭師です。一口に植木屋と言っても、下入れ屋さんもいるし、我々のような工事屋もいるし、材料を仕入れて納める者もいます。植木屋と一口に言うけれど、分析すると三っあって、その中で我々は完全に庭師、工事屋だと言うことに私は誇りを持っています。だから三つあるその中の庭師。ランドスケープを入れると四つになりますかな。(笑い)
造園の仕事を終えた時点の評価と、長い期間を見でみての評価について、どう思われますか。
吉村:新庭でお客さんに引き渡す時には、綺麗だけど、一番未完成の時に完成として渡す事になると思っています。そして、後の管理によって3年なり5年を経た時に、自分の思うものが出来るんだと思います。ですから、庭はいかに後の維持管理が大切かということです。一番はじめは未完成のまま完成として納入する、だからその後3年なり5年経ったときに、伸びるものは伸びる、ある程度切るものは切ってキチンと自分のイメージ通りの姿が出来る。それには3年後、5年後、あるいは10年掛かるかも知れない。その年月を経てはじめて私は完成だと思っています。
また、今盛んに再生剪定という手法が行なわれています。全くどうにも周辺の環境に添えなくなった樹木を切り詰めるという事ですが、そうした作業でも、切り詰める時すでに頭の中には切り詰めた後の樹木の将来像の出来上がりの姿が見えています。その姿が出来なかったら、再生剪定作業は出来ないと思うんですが。
発注する側、オーナー側にもそういう風な目で、見て貰いたいという所がありますね。
吉村:私がまだ庭師で駆け出しの頃に、「親方の鋏の音が気持ちが良いんだ」と言って、松の剪定を眺めている、得意先のダンテがおられました。年の瀬の剪定作業の際に、親父が旦那さんの目の前にある松の剪定を私に申し付けた。私が小枝に鋏をいれパチンと音をさせると、旦那さんがアッと言って仰るには、「これは去年親方が手入れをやったんだから、少し切り過ぎじゃないの」なんて。それくらい目が高いダンテがいました。そう言う人っていうのは私達職人の技量の程をよく見ているし、私達の腕を評価してるんですね。あの枝はこうだから来年はこうだよ、と先の話をするんです。私はまだ何も分からないんだから、先の事なんか尚更分からないのに、ダンテが教えてくれるんです。先を読みなさいよと教えてくれる。お互いに良いものをみる目、良いものを作りたいという気持ちがあったからでしょう。ですからこれから私達も益々研鑽を重ねて現代社会の二一ズに適合した環境を作っていくことを考察していかなくてはならないと思っております。
本日はどうも長い時間ありがとうございました。これからもますますお元気で,ご活躍いただきたいと存じます。
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