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| はじめにを引用 | ||||||||||
| 戦後、とある造園会社に勤めた私は、昭和23年頃と思うが神奈川県相模原市に建設中の米軍人家族のキャンプ地の造園修景造成工事の現場代理人として派遣させられた。現地で作業が始めて先ず驚いた事は、作業で使う我々の諸道具がいかに旧式でしかも非能率的であること。それに比べ進駐軍即ち米軍の使用する諸道具はすこぶる進歩した建設用具の機械化であって、またその諸機械を存分に駆遂して作業の効果を高める見事な技量には思わず敬服し今更ながら無謀な戦争をと挙を握った次第である。そして戦後も半世紀を過した今日我が国は経済犬国と変身して、世界の先進国の一員とまで躍進している。その一役を担った建設業界における建設現場の機械化の推進は作業速度の増加、加えて工事期間の短縮あるいは単位時間当りの作業量を増加させて各工事費の節約を可能にする等々には全く目を見張るばかりである。 従って造園業界においても時代の二一ズに即応すべく企業の近代化と変貌を推進している。しかしその反面高度な技術、技能が親方から師弟へと守られて昔から伝承されてきた数多くの伝統的技法はその影が薄らいできており、ややもすると現代の若い技術者から忘れ去られようとしている。現代の若者達は便利で機能的でしかも格好のよい大小各種の建設用機械での作業を選択するためか、ともすると物作りの基本理念から離脱してしまっている。汗を流すことを好まず姿、形のみにとらわれて体裁と見栄に追われた造形に移行してか造られた庭園には昔の風流、優雅の感覚が失われてしまっている。 建築資料研究社発刊誌「庭」69号に「しなの木庭園研究会に思一職人道を究める活動と題して、中島松泉氏が投稿された文を拝読して私が思っている憂慮と全く一致している事に大きな力を得た心地を感じている。そこで、氏が力説されておられる点を二、三本文より抜粋して紹介してみよう。現在見られる庭園に風流、優雅の感覚がなく、体裁と見栄に追われた造形となり伝統、伝承が忘れ去られている。戦後民主化の影響を受けて師弟、徒弟制度がなくなってしまい、師弟、徒弟という言葉は知っていても実際には何であるかもわからぬのが現実である。師弟とは職の道の条件、態度、姿勢などプロが踏まえなければならない伝承たる「口伝」を身をもって"たたき込み、たたき込まれる"ものである。また今は世評に惑わされて、より以上ばかりを追って何かないかと何々研究会と称して外ばかりを見ているようだが、センスとアイデアに走り体裁と見栄に追われて造形のみを考えており、庭の本質が何であるかを究明することを忘れていると思う。 何事にも基礎原理がある通り庭発祥の原理と、庭師の本分と技術の基礎をもう一度見直し、自らを練磨することが技の道を開く近道である。更に技とは熟練を要するものであるが、携わる者の心構えが大事である。スコップ、コーガイ板、ホーキ等道具一つ取っても使用方法の意味があることに注意を払わなければならない。作庭においても八分通りは自然を扱う以上自分の”我”は二の次に、自然に順応することが庭に最も重要な要素である。 心構えの体型づくりの一つの方法として作法、茶道、華道などの道の道理を知る方法もある。技は一生ともいわれていることしばしばなればプロの職人としては誰にも出来る仕事であれ、その仕事に対して自分にしか出来ない技法を修得するのが応える道である。整ったものならばより以上によくするのが技であり職人芸で応えるのがプロである。このように力説されている。法隆寺の昭和大修理を見事完成させた当代宮大工の名工として有名な西岡常一棟梁に睦築材料、特にその建物の骨格となる柱についての質問の答えに次の様な説明がなされた。即ちその建物の骨格となる主要な柱等については西岡氏自身、深山に入りこれと思われる用材樹木を決め、同時にその場で東西南北の方向をその樹木に記しておき、用材として柱に使用時その方向通りに建込むことによって山中で風雪に耐え、刻まれた年輪通りの強力な柱となり、数千干間の耐用材となる事を説明された。これは正に自然の節理に従う基本法である。そしてこの原理と全く同様である樹木の中で巨木に類する場合の移植についても、移植前にその巨木の東西南北の方向を定植時に間違えぬよう植付けることによって、移植前の樹木の活性環境に変化がないため、活着の促進、あるいは活着後の樹勢衰退防止を考慮するよう心掛けなければならない。 また現在穴太衆積み石垣の伝統技術を継承している石工として13代目にあたる栗田万喜三氏、氏の石垣の積み方について心得として次の様に述べられている。石積技法は口移しですので、口で言えても文書に書けない面が多いわけですな。底が深く修行する気持が必要で、精神面がほとんどです。単に石を積むというよりも修行を積み重ねて石の心を知る。これが穴太衆積みの姿となって表れると思っています。ただ積んだからよいというものではないですな。と言われている。 |
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